消え行く天井川(その3)

                  湖 北 の 天 井 川
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1.はじめに   滋賀県には沢山の天井川があります。  滋賀県は周囲が山で囲まれており、滋賀県を水源とする120余りの川は、  わずかな例外を除いて、全て琵琶湖に流れ込んでいます。そのため、短距離  を山から流れ落ちる川が土砂を運んで河床が高くなり、天井川が作られまし  た。   天井川とは、「河川の運搬した砂礫が堤防の間を埋めて、河床が周囲の平  野面よりも一段と高くなったもの」(広辞苑)です。   今回ご紹介する川は、湖北にある田川(たがわ)です。  この川は、天井川からの逆流を避けるため、先人の必死の努力により、天井  川の下を潜って放水路に接続された珍しい川です(田川自体は天井川ではあ  りません)。 2.田川の場所   まず、場所を確認してみましょう。  湖北で最長の姉川は、伊吹山麓に始まって西に流れ、余呉湖の東に発して南  下する高時川と合流し、琵琶湖へ注いでいます。小谷山の周囲の水を集めて  流れる田川は、姉川と高時川の中間にあります。かつては三つの川が一箇所  で合流していました。 20100610tagawa-map.jpg   現在、この合流場所付近で、  田川は高時川と立体交差して  います。  1:田川  2:高時川  3:姉川  4:草野川  A:西野隧道  B:雨森芳洲庵  C:小谷城址  D:姉川古戦場跡 ←広域地図    20100608tagawa (1).jpg   左図は三川の合流地点付近  の詳細地図です。     合流地点は、長浜駅の北方  約5キロの位置にあります。   R8(国道8号線=昔の北  国街道)を北上し、姉川大橋  を越えて間もなく左折すると、  田川と高時川の交差する場所  に着きます。 ←合流点付近の地図*   本稿では、参考図書として、虎姫町教育委員会・編集(平成21年11月  発行)の「ふるさと虎姫 田川の歴史を知る」を参照させていただきました。   *印を付した写真等は、同資料から引用させていただいたものです。   なお、虎姫町は他の近隣5町(湖北町、高月町、木之本町、余呉町、西浅  井町)と共に、今年(2010年)1月1日をもって長浜市に編入しました。 3.田川カルバート   現場を訪ねる前に、現場付近の様子を上空から眺めてみましょう。  思い切って大枚を投じ、ヘリコプターをチャーターして写真を撮りました!  この写真の中央辺りがJR虎姫駅を囲む虎姫町中心部、上部中央の山に浅井  長政が構えた小谷城址、中央を斜めに流れているのが本稿の主題である田川  です。(念のため、チャーター代は私が工面した...わけではありません)    20100608tagawa (2).jpg      ↑上空から見た虎姫町*   まず、高時川と姉川が天井川であることを確認しておきましょう。   左下の写真は、田川が高時川の下を潜っている横にある錦織橋の上流側を  見たものです。高時川の堤防は、二階建て住居の二階に近い高さであること  が分かります。   後述するように、田川カルバート(地下水路)は、現在は錦織橋の下流側  にありますが、初期には上流側に設けられました。写真の水底に見える石の  造作は初期のものと思われます。   右下の写真は、国道8号線が通っている姉川大橋の付近で、向かって左端  にある姉川の堤防に、正面の国道8号線が上っていく場所です。姉川の堤防  は、8号線の向こうに建っている2階建ての住居の屋根に近い高さであるこ  とが分かります。 20100428tenjyo (12).jpg ←高時川(錦織橋の上流側)    ↓姉川の堤防 20100428tenjyo (01).jpg   田川は、かつては錦織橋より少し下流で高時川に連なっていたそうです。  高時川と姉川の合流地点に近い場所なので、三川が合流していたと言えます。  そのため、天井川である高時川と姉川の水量が増すと、田川へ逆流し、田川  周辺はしばしば水害に遭っていたそうです。   では、水害を避けるために作られた田川カルバートを見てみましょう。  カルバート(culvert)とは、道路や堤防などの下を横切る俳水路の意味で、  日本語では「伏越樋(ふせこしひ)」と呼んでいたようです。ひらたく言え  ば「暗渠(あんきょ)」に相当すると思われます。なぜ外国語が当てられて  いるのかというと、明治時代に日本の土木指導にあたっていたオランダ人の  ヨハネス・デ・レーケの指導を仰いだためのようです。   20100428tenjyo (02).jpg ←カルバートへの入り口  (正面が高時川の堤防)  ↓錦織橋(向かって右が下流) 20100428tenjyo (03).jpg 20100428tenjyo (04).jpg ←錦織橋に沿っているカルバート  (高時川下流側)  ↓カルバートの出口 20100428tenjyo (05).jpg 20100428tenjyo (06).jpg ←琵琶湖に向かう放水路   高時川の下を潜ってきた水は  放水路で琵琶湖へ向かいます。  放水路は掘り下げられているた  め、流れはゆったりしています。  ↓琵琶湖岸の放水路 20100428tenjyo (07).jpg   姉川の様子も見てみましょう。 20100428tenjyo (08).jpg   田川カルバートの少し先、300  メートル位下流、で高時川と姉川が  合流しています。   高時川は「妹川」とも呼ばれてき  たようです。 ←合流地点  (右から姉川、左から高時川) 20100428tenjyo (09).jpg   合流地点から下流の名称は姉川です。   琵琶湖湖岸の河口はゆったりしています。 ←合流地点から見た下流  ↓琵琶湖に注ぐ姉川河口 20100428tenjyo (10).jpg   ついでに姉川の上流を一箇所眺めてみます。  姉川と聞けば、かつての合戦場を思い起こす人が多いかと思います。  400年以上前の合戦当時は、戦闘が繰り広げられた辺りには堤防がなかっ  たか、あっても貧弱だったに違いなく、姉川の氾濫は手に負えなかったので  はないかと思われます。 20100428tenjyo (13).jpg ←姉川古戦場  ↓古戦場付近の姉川(後方に伊吹山) 20100428 kohoku (05).jpg   さて、もう一度田川に戻ります。  先に掲げた航空写真を見ると、田川は比較的直線的ですっきり伸びています。 20100608tagawa (4).jpg  これは直流化工事によるもので すが、昔は随分と蛇行して深い淵 が沢山ありました。  そのため、虎姫のむかし話には、 河童や大蛇などが田川に住んでい た、などの言い伝えが残されてい ます。 ←田川新旧比較図(大正4年)*   初期の田川カルバートが完成したのは明治18年です。  しかし、その後もしばしば水害が発生したため、改良が積み重ねられました。   カルバートの寸法の変化(田川治水事業年賦*から抜粋)   ■明治18年(1885)カルバート竣工:   高さ2.0m、幅3.0m、長さ109m、 流量 49立米/秒・2連   ■昭和 4年(1929)拡幅工事:   高さ2.3m、幅3.6m、長さ98.3m、流量 49立米/秒・2連  ■昭和41年(1966)新カルバート竣工:   高さ4.2m、幅4.2m、長さ216m、 流量109立米/秒・2連   このように、田川はカルバートによって高時川から遮断されているため、  現在では水害がなくなっているようです。 4.江戸時代の田川治水事業   ここで、田川治水事業の歴史を追ってみると、概略次のとおりです。  
  安政 元年1854 高時川との合流点を約50メートル下流に付け替え
  万延 元年1860 木製伏越樋竣工                総事業費8万両
  万延 2年1861 田川逆水門竣工
  明治18年1885 洋風レンガ造りの田川カルバート竣工   総事業費7万円
  明治21年1888 田川改良逆水門および井堰竣工
  明治27年1894 カルバート修繕工事竣工
  大正 3年1914 田川直流工事竣工 
  昭和 4年1929 鉄筋コンクリート造のカルバートを継ぎ足す工事竣工
                       総事業費約3万9千円
  昭和41年1966 田川中小河川改良工事による新カルバート竣工
                   総事業費約1億1千7百万円
  (田川治水事業年賦*から抜粋)   この年表を見ると、驚くべき事実に気づきます。それは、田川カルバート  が築かれた明治時代よりも前の江戸時代に、既に同様の工事が行われていた  という事実です。   田川カルバートは、カルバートという横文字が当てられていることからし  て、明治時代に外国人の設計で施工された新しい技術かと思いました。しか  し、明治18年よりも四半世紀も前の江戸時代に、日本人の手によって木製  の伏越樋(=カルバート)が築かれていたのでした。    流砂量の多い姉川と高時川は天井川化が進み、長雨や大雨の度に河床の低  い田川へ水が逆流し、上流の唐国村、月ヶ瀬村、田村、酢村は洪水や浸水に  襲われていたようです。越前に向かう北国街道(現・国道8号線)も水没し  て、舟や筏を使う有様だったそうです。 20100608tagawa (6).jpg   この四カ村の田川治水に関する  歴史が「四カ字共有文書」として  残っています。 ←四カ字共有文書*   古文書に記録されている治水事業とその経緯の詳細は割愛します。  要するに、幕府(大津代官)の許可の下に、木製の樋を高時川の下に敷設し  て田川の水を通過させる水路が万延元年(1860年)に完成したそうです。   ちなみに、四カ村のひとつの田村は、安政5年(1858年)に大老とな  り、安政7年(1860年)に暗殺された井伊直弼(井伊掃部頭)の領地で  した。(安政7年は3月18日から万延に改元)   ところで、虎姫四カ村は新川開削の許可を願い出るにあたり、技術的な問  題を事前に検討していました。   美濃国大垣は豊富な地下水に恵まれていた一方、洪水常襲地域だったそう  です。揖斐川と牧田川の合流地点である大垣輪中の南部(現在の名神高速大  垣ICの南付近かと思います)は村より川底が高くなっていたため、伏越樋  を設置することによって輪中内にたまる悪水を排出させました。   「輪中(わじゅう)」とは、洪水から田畑や家屋を守るために、村の周り  を堤防で囲んだもの、だそうです。 20100608tagawa (3).jpg   伏越樋は天明5年(1785年)  に完成。その後30年毎に樋管が取  り替えられ、本格的な河川工事によ  り明治38年(1905年)に役目  を終えました。 ←伏越樋のしくみ*  (大垣市輪中館資料より転載)   虎姫四カ村の代表は大垣を事前に視察した、ということです。 5.西野隧道   湖北の天井川訪問のついでに、「西野隧道」を訪ねてみましょう。  旧・高月町の琵琶湖に近い一画(本稿の最初に掲載した広域地図のA)に、  西野隧道があります。 20100428tenjyo (11).jpg   ここ西野地区は西と北に低い山が  あり、東側に余呉川が流れています。   この川がしばしば氾濫したため、  放水路として山にトンネルを掘りま  した。石工がノミで岩盤を掘り、5  年かけて弘化2年(1845年)に  完成したそうです。 ←西野地区   初代の西野隧道は全長220メートル。ノミの痕が残っており、一人がや  っと通れるだけの広さです。   昭和に入り、2代目の放水路(全長245メートル:現在は琵琶湖側への  連絡通路として使用)が昭和25(1950年)に作られ、現在の放水路で  ある3代目(全長252メートル)が昭和55年(1980年)に作られま  した。 20100428 kohoku (11).jpg ←初代の西野隧道   現在の西野隧道(余呉川放水路)  ↓写真右端付近から初代、2代、3代 20100428 kohoku (12).jpg   6.おわりに:   田川カルバートの存在を知った時、これは外国人が持ち込んだ新しい技術  だろうと思いました。しかし、江戸時代に日本人の手によって同様の工事が  田川で既に行われていたことを知って驚きました。   さらに、田川カルバートよりも100年前に、美濃の国(岐阜県)で同様  の排水工事が実施されていた、ということは一層の驚きでした。   地下に俳水路を通す、という考え自体は単純で、歴史的に見たら新規性が  ないかも知れません。エジプトやローマでは随所に施工されていたのだろう  と思います。しかし、古代社会では、多分、権力者の指示に基づいて施工さ  れていただろうと思われるのに対し、田川の木製伏越樋は生活者の願望に基  づいて実現した、という点で賞賛されるべきだろうと思います。当時の8万  両という莫大な工事費は、受益者たる12カ村が彦根藩から借用して支払っ  たそうです。 20040602s003.jpg  「近江の散策」を立ち上げた当初、「妓王井川」  の記事を掲載しました。   妓王井川の流れに沿って歩いた時、流れが途  中で途絶えている場所がありま した。  そこは道路の下の暗渠を流れていたのでした。  その時は気づかなかったのですが、そこは天井  川だった家棟川があった場所でした。 ←地下を潜り抜けてきた祇王井川          長浜市の北部に、伊吹山(1,377m)に次ぐ高さ(1,317m)の  金糞(かなくそ)山があります。かなくそとは、古代タタラ製鉄のカナグソ  (製鉄の屑)を意味しているようです。湖北では古くから製鉄が行われ、燃  料の木材を伐採したことが、高時川や姉川の天井川化を招いたひとつの要因  のようです。   本稿に登場する高時川と姉川は、現在も天井川として健在です。  本稿を「消えゆく」天井川シリーズに加えるのは相応しくないかも知れませ  んが、川のシリーズということで、水に流してくださいませ。                     (散策:2010年4月28日)                     (脱稿:2010年6月25日)  参考図書:   1.「ふるさと虎姫 田川の歴史を知る」 平成21年11月     執筆・編集:福井智英(学芸員) 発行:虎姫町教育委員会    2.「田川沿革誌」           平成7年年3月     編集・発行:滋賀県長浜土木事務所   3.「虎姫のむかし話」         昭和54年3月15日     編集:虎姫むかし話編集委員会  発行:虎姫町公民館   4.「虎姫のむかし話 第2集」     昭和55年3月31日     編集・発行:虎姫町教育委員会  ご参考:(本稿に関連する掲載済みの記事)    1.消えゆく天井川     2.消えゆく天井川(その2)    3.祇王井川       
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